申し訳ありません。①〜③を読んでからお読み下さい。
今回で「障害のある子の親である私たち」の感想は最終回です。
最後に著者の福井さんとお話しして、本を読んだ自分の私見を少し、書かせていただきたく思います。
福井さんの仰っておられた事で印象的だった事、一つは多くの人々は最初は社会を変化させることや新しいサービスを使う事に対して消極的です。しかしある時点で雪崩を打ったように同じ方向に進み始め、最終的には何故その方向に世の中が変わってきたのか誰も覚えておらず、また先駆者の人達がどんな苦労をして来たのかも問題にされなくなると。
別に福祉の世界に限らず、今の日本社会においては、(今に限らないのかも知れませんが、、)
自分達の来し方について、客観的に見つめ直し、何処を改めれば良いか、何処は大切なものとして受け継がなければいけないか?きちんと考えて言語化
する努力を欠いているような気がします。
人は悩み考え行動し、失敗しながら前へ進んでいくものです。
しかし、結果としての果実より実は苦しんで来た過程自体、そのプロセスこそが人間を成長させるものとして一番必要なのではないか?そう感じました。
ふたつ目に差別についてです。
福井さんは10人の人がいて、10番目に弱い人を切り捨てれば、次は9番目の人が差別されるようになる。これでは根本的に差別はずっと続くもので解消されるわけはないと言われていました。
僕は障害者の問題を全く考えた事のない人達にこそ、是非この本を読んでもらいたいと思うのですが、最近では子供を産む前に、その子に障害があるかどうか少しづつ分かるようになって来ています。
その中で命の選別が行なわれるようになってきている。
これはナチスの優生学にも通じる事で恐ろしい現実です。
僕は根本的に人間の心の中から完全に差別感情を取り除ききってしまう事は不可能だと思っています。
自分の中にも差別性はあると思うし、それを見つめる事が大事な事ではないかと思っています。
しかし、社会自体が差別を後押ししたり、是認して良いはずがありません。
私達はみんな不完全で欠陥だらけの人間です。だからこそそんな不完全な私達が命の優劣を決める権利などあろうはずがありません。
前項にも書いた、行き過ぎた能力主義、暴走する資本主義がお金ですべての価値を量れるという考えに我々みんなを一色に染め上げようとしています。
障害者の親である私達はその事に気付ける立場であるはずだし、敏感でなければいけません。
最後に社会と世間の違いについて。
今、「世間とはなにか?」という本を読んでいるのですが、福井さんが感じているジレンマは日本の中で何かを主張するとき、必ずついてまわる世間というもの、ちょっと考えると社会と同じような意味で使われる事が多いこの言葉ですが、実は随分違うと思うのです。
世間の枠というのは大変小さい。ようは自分の所属する組織、そして自分の
周辺にある人間関係だけの世界を守ろうとする事。対する社会という概念は西洋世界で成立したことであり、日本では非常にリアリティの薄い概念なのだと思います。
社会的流れを形成するという事は、組織の利益ではなく、それに関わる当事者全員の公共性を獲得しようとする事ですから、社会と世間の概念はしばしば衝突しえる事だと思います。
健常者である私達1人1人がまず精神的
に自立し、個人として自分の意見を持つこと、そして立場を異にする人とも
議論を重ねる根気と勇気をもつこと。
障害を持つ人達はやはり我々より、生きにくい存在なのです。
そんな人達から自立の名の下に生きる杖を奪ってしまうような了見の狭い世の中にしないため、自立と共生のバランスを考え続けなくてはなりません。
こんなにたくさんのことを考えさせてくれたこの本を1人でも多くの人に読んで欲しいと思っています。そして勇気ある個人の意見を表明され、楽しくためになるお話をきかせて下さった著者の福井公子さんに感謝と敬意を表し、ありがとうございました。 あき書