2014年8月30日土曜日

七十二投目 自立と共生の間④

ものすごく間が空いてしまいました。
申し訳ありません。①〜③を読んでからお読み下さい。
 
今回で「障害のある子の親である私たち」の感想は最終回です。

最後に著者の福井さんとお話しして、本を読んだ自分の私見を少し、書かせていただきたく思います。

福井さんの仰っておられた事で印象的だった事、一つは多くの人々は最初は社会を変化させることや新しいサービスを使う事に対して消極的です。しかしある時点で雪崩を打ったように同じ方向に進み始め、最終的には何故その方向に世の中が変わってきたのか誰も覚えておらず、また先駆者の人達がどんな苦労をして来たのかも問題にされなくなると。

別に福祉の世界に限らず、今の日本社会においては、(今に限らないのかも知れませんが、、)
自分達の来し方について、客観的に見つめ直し、何処を改めれば良いか、何処は大切なものとして受け継がなければいけないか?きちんと考えて言語化
する努力を欠いているような気がします。
人は悩み考え行動し、失敗しながら前へ進んでいくものです。
しかし、結果としての果実より実は苦しんで来た過程自体、そのプロセスこそが人間を成長させるものとして一番必要なのではないか?そう感じました。

ふたつ目に差別についてです。
福井さんは10人の人がいて、10番目に弱い人を切り捨てれば、次は9番目の人が差別されるようになる。これでは根本的に差別はずっと続くもので解消されるわけはないと言われていました。

僕は障害者の問題を全く考えた事のない人達にこそ、是非この本を読んでもらいたいと思うのですが、最近では子供を産む前に、その子に障害があるかどうか少しづつ分かるようになって来ています。
その中で命の選別が行なわれるようになってきている。
これはナチスの優生学にも通じる事で恐ろしい現実です。
僕は根本的に人間の心の中から完全に差別感情を取り除ききってしまう事は不可能だと思っています。

自分の中にも差別性はあると思うし、それを見つめる事が大事な事ではないかと思っています。

しかし、社会自体が差別を後押ししたり、是認して良いはずがありません。

私達はみんな不完全で欠陥だらけの人間です。だからこそそんな不完全な私達が命の優劣を決める権利などあろうはずがありません。

前項にも書いた、行き過ぎた能力主義、暴走する資本主義がお金ですべての価値を量れるという考えに我々みんなを一色に染め上げようとしています。

障害者の親である私達はその事に気付ける立場であるはずだし、敏感でなければいけません。

最後に社会と世間の違いについて。
今、「世間とはなにか?」という本を読んでいるのですが、福井さんが感じているジレンマは日本の中で何かを主張するとき、必ずついてまわる世間というもの、ちょっと考えると社会と同じような意味で使われる事が多いこの言葉ですが、実は随分違うと思うのです。

世間の枠というのは大変小さい。ようは自分の所属する組織、そして自分の
周辺にある人間関係だけの世界を守ろうとする事。対する社会という概念は西洋世界で成立したことであり、日本では非常にリアリティの薄い概念なのだと思います。
社会的流れを形成するという事は、組織の利益ではなく、それに関わる当事者全員の公共性を獲得しようとする事ですから、社会と世間の概念はしばしば衝突しえる事だと思います。
健常者である私達1人1人がまず精神的
に自立し、個人として自分の意見を持つこと、そして立場を異にする人とも
議論を重ねる根気と勇気をもつこと。

障害を持つ人達はやはり我々より、生きにくい存在なのです。

そんな人達から自立の名の下に生きる杖を奪ってしまうような了見の狭い世の中にしないため、自立と共生のバランスを考え続けなくてはなりません。

こんなにたくさんのことを考えさせてくれたこの本を1人でも多くの人に読んで欲しいと思っています。そして勇気ある個人の意見を表明され、楽しくためになるお話をきかせて下さった著者の福井公子さんに感謝と敬意を表し、ありがとうございました。 あき書

2014年8月13日水曜日

七十一投目 自立と共生の間③

お久しぶりです。八月は仕事が忙しく、なかなかブログ更新できずに申し訳ありません。
二ヶ月も間が空いてしまいましたが、
「障害がある子の親である私たち」の感想の続きです。①、②を読んでからお読みください。
実は本を読んだ後、著者の福井公子さんにお時間を頂いて、自分がやっている障害福祉サービス コトノハのスタッフと所属会社であるLLCトライアクションの経営者と共に、本を読んだ感想を交えながら、直接お話しを聴かせていただく機会を得ました。

福井さんは情熱的に楽しく、約三時間弱興味深いお話しをしてくださいました。
特に自分が印象に残っている事を抜粋して書かせていただきます。
まず、自分たちがやっている仕事、「行動援護」や「移動支援」について、過去からいかに障害のある子供たちの家族さんが苦労をしながらこの制度を作り上げてきて下さったのか、非常にわかりやすく、面白くお話ししてくださいました。
「行動援護」、「移動支援」というサービスは知的、精神、身体に障害がある方の外出を安全に行うため、ヘルパーが外出先で同行させて頂くサービスです。我々は制度として確立された状態でこのサービス関わらせて頂いていますが、まず過去には障害者の方達のサービスへの選択肢は施設入所しかなかったのです。福井さんは施設入所は基本的に社会から見えない状態にしてしまうこと、地域とのつながりを切ってしまうことであると言われていました。
自分達が生きる地域共同体の中に、(この場合徳島県阿波市)自分達の子供も当然当たり前に暮らして欲しい。手に入れたいのは当たり前の生活を営む権利。このことをノーマライゼーションと言います。

しかし、そこに関わるボランティアの方も都会と違って田舎である徳島にはほとんどいません。

そこで福井さんは周り親子さんたちに声をかけて、「休日サポートビバ!ノンノ」というグループを立ち上げます。福井さんの行動力は凄くて、思いたったら即動く、という感じで非常に痛快です。

「ビバノンノ」の活動は障害がある子と親御さんたちが集まり、休日にお互いのお子さんを見守りつつ、ボーリングやカラオケ、バーベキューなどで楽しもうというグループで、初めてその事を知ったとき、徳島で自ら率先して親御さんたちが立ち上げたという事実に僕は興奮したのでした。

しかし、本当は障害を持つ子の親御さんたち自身が休息を取ったり、仕事ができる時間が必要なのです。

本の中でも主張される事ですが、本当は行政やサービス提供できる業者側が率先して障害福祉を引っ張っていかなければ行けないのに、自分達が活動し過ぎる事で、社会に訴えかける事を忘れがちになってしまうのではないか?
という疑問も同時に提示されます。

全ての人が産まれ育った地域の中で暮らしていけるような社会を目指すべきであるという、ノーマライゼーションの理念もここ何十年かの間で少しづつ、盛り上がりを見せてきました。

そんな中、国の福祉サービスに外出サービスが組み込まれる前、全額実費で
外出サービスを手掛ける業者も現れたそうです。

たとえ高い利用料を払ってでも、このサービスを社会的に定着させるためには、サービスを使い続けることが必要だったと福井さんは言います。

親御さん同士でも誤解や軋轢があり、「あなたの所はお金があるから、できるんだ。」
「なんで、高い料金を払ってまで、他人に自分の子供をあずけるの?」
といった辛い言葉もあったようです。

いつでも先頭に立って、子供たちと親御さんのこと、社会的な障害福祉サービスの定着について考えてきた福井さんは、先頭に立つがゆえの誤解や中傷を感じてこられたのだと思い、
胸が痛みました。
そのような苦労の末ようやく、行動援護、移動支援のサービスが公的に創設されました。
あき書。④に続く。