2014年6月14日土曜日

六十一投目 自立と共生の間①

今までこのブログでは主題から離れてしまう為、現在の我々の仕事については書いてきませんでしたが、今回是非紹介したい本があり、チョット本職の方の課題や親としての気持ちも書いてみたいと思います。


今現在あきゆきは障害福祉のお仕事をさせて頂いています。行動援護と移動支援というサービスで、障害のある方(主に知的障害、自閉症のお客様が多いです。)の外出、余暇活動、日常生活のお手伝いをさせて頂くお仕事です。

そしてうちの十五歳の長男も自閉症です。今までこのブログに登場していないのは、彼は大のアウトドア嫌いだからです

ここで紹介させて頂きたい一冊の本、「障害のある子の親である私たち」というタイトルです。

著者である福井公子さんは、徳島県西部阿波市手をつなぐ育成会の会長さんです。
月一回障害のある子を持つ親のためのお喋り会を主催されており、あきゆきもつい先日参加させて頂き、楽しい時間を過ごすことができました。
障害そのものの分析や教育方法を書いた本はいくらでもあります。
ですがこの本は恐らく唯一の障害を持つ子を持つ親を主役とした本なのです。

この本の中には、王様は裸ダ!と指摘する場面が沢山でてきます。

ー一人では生きていけないから、社会の役に立たないからとして親が子どもを殺すことを称賛されるなら、「親亡き後」とはいったい何なのでしょうか。それはそのような子どもを産んだ親が自己責任をとれということと、どこが違うのでしょうか。
不治の病に犯された父親が障害のある子を自分の死後の不憫さから殺すというストーリーの映画、またそれに感動したというレビューに著者は違和感を覚えます。

ー一方で私は、同じ立場である親たちにもいらだちを募らせていました。そのような社会の眼差しに何の反応もしない。感じることも考えることも、そして抗議することも忘れたかのように私には見えたから。ーまえがきより。
著者は世間が求める障害者、その家族へのイメージに反発します。
そして、いつの間にか当たり前になってしまった自己責任という言葉。
小泉政権の頃から流行り出したこの言葉に、僕は最初からうさんくささを感じていました。自己責任を追求すれば当然最終、弱肉強食になるしかなく、
つまりアナーキーな世界が想定されますが、日本は憲法を持つ法治国家ではないのでしょうか?憲法第25条には生存権が示されています。本来まともな国というのは弱いものにこそ杖を与え
、強いものには規制をかけなくてはいけない。
福祉の世界では自立支援という言葉が大流行りですが、福祉に関わっている誰もがうすうす気づいているように、
これは経費削減のていの良い言い換え
言葉でしかない。

そもそも自立という言葉自体多くの人は真剣に考えた事がないと思うのです。それが経済的自立なのか?精神的自立なのか?資本主義の行き過ぎた現在では、ほとんどの場合、経済的自立しか問題にされません。しかし、経済的自立がもっとも難しいのが知的障害を持つ人達なのです。果たして経済的自立を勝ちとれない人またはその親は敗者なのでしょうか?
 
では翻って精神的自立はどうでしょう?

ー「しおらしい」「かわいらしい」。
それが嫁さんに対しての最大のほめ言葉であり、その反対に嫌われるのが「かしこすぎる」ことであることを、私は朝なら夕なに聞くともなく聞こえるお年寄りたちの茶飲み話しから感じていました。ーp38しおらしいより。

精神的に自立する事の第一歩は考えるという行為です。人として考えれば当然、その次はそれを言葉にし、さらに文章に綴ろうとします。

しかし、日本の田舎の共同体の中では実は考えること、自覚すること、そして精神の独立自尊を達成しようとする事は必ずしも歓迎されない事なのかもしれない。僕は共同体が復活して欲しい。しかしそこには越えなければいけない壁があるのも事実だと思うのです。
もっぱら現代日本社会で問題にされるのは経済的自立のみであり、もっというと働いてなくとも、物を消費できれば、大人であるとの風潮もある。

そんなに自己責任と経済的に自立することを大事にする国なのになぜ60万人ものニートを産み出してしまったのでしょうか?
あき書。②に続く。




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