2014年6月22日日曜日

六十二投目 自立と共生の間②

前回の続き「障害者の親である私たち」という本の感想です。
ーお年寄りの世話や孫の世話、地区のゴミ当番やPTA活動、それに親の会。私たちが暮らすには誰かが担わなければならない無償の行為があります。障害がある子がいることで働かない、あるいは働けないでいると、いつの間にかそれらの行為を手に余る程担うことになります。ー
ー働くということも誰かの無償の行為に依存しているという事もあるのではないでしょうか。ー
ーけれども「遊んでいる」と言われる私たちが引き受けてきた無償の行為も、「働く」ことと同じくらい価値があることだと思いたい。ただ社会はさっそうと働く人を応援します。ーP50無償の行為より

働きたくても働けない人がいる。また一方で働けるのに働かない人もいる。
これは何故でしょうか? 

また無償で人につくす事は昔は称賛されていたはずです。私たちは気づかないうちに人の行為を経 済活動であるか否かで判断するようになっていないでしょうか?

数年前、民主党政権の時代に福祉を成長産業にする!と息巻いていた首相がいましたが、この時大変な違和感を持ったのを覚えています。
彼はいったい福祉という言葉の意味を知っていたのでしょうか?
福祉とはしあわせ、ゆたかさを意味し、全ての国民に最低限の幸福と社会的援助を提供するという理念を指し、前述の日本国憲法第25条生存権ー全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。ーに保障されているはずです。
つまり福祉とは国のインフラストラクチャーの一環であり、道路を整備したり、図書館を作ったり、義務教育制度をしいたり、予防接種を実施したり、過疎の地域に補助金を渡したりするのと同じく、国民の安心な生活の基盤として敷くものであり、そのような高度な安心の上でこそ、一人一人の経済活動がなりたつのです。
福祉はその成り立ちの性質上、お金の話のみに限れば必ず赤字になって当たり前というより、採算性を導入すれば福祉の理念が崩壊してしまうのです。

にも関わらず、この首相は福祉を成長産業とする。と言う。
福祉は産業ではあり得ません。

国家が行う福祉の上に全額実費負担でも最高のレベルの福祉的サービスを受けたい。とお金持ちが思うのは勝手です。また私たちは最高のサービスを提供する代わり、実費負担で高額サービスを売ろうと業者が考えるのも別にいいと思います。
ただ、それとは別に国が行う福祉は絶対に採算性で考えてはいけないのです。それを成長産業になんて話はようするに国が国民の最低限の生活に責任を負わず、貧乏な人は福祉サービスは受けられなくなる。と言っているのと同じことです。
資本主義が行き過ぎた社会では、お金で人の行為を換算できると考える人が多数出てきます。しかし冒頭で紹介したこの本の一文のように実際には無償で賞賛される行為は極めて言葉本来の意味で福祉的であると思うのです。
③に続く。あき書。






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